ログイン管理通路は、理科準備室の裏側へ近づくほど狭くなった。
古い給水管と新しい電線が頭上で絡み、ところどころ壁から剥き出しの鉄骨が突き出している。五人は身体を横へ傾けながら、一列になって進んだ。
先頭の朔が足を止める。
「この先だ」
懐中電灯の光が、コンクリート壁の小さな表示札を照らした。
理科準備室。
文字を見ただけで、澪の呼吸が浅くなった。
胸の奥へ冷たい指を差し込まれたように、息が途中で止まる。
八年前。
濡れた木の扉。
爪で何度も表面を引っかく音。
『澪ちゃん、開けて』
澄花の声。
取っ手へ両手を掛けた自分。
そして、背後から腕を掴んだ誰か。
耳元へ落ちた低い男の声。
『もう助からない』
「澪」
朔の声で、記憶が切れた。
目の前に彼の肩がある。
「止まるか」
「止まらない」
答えるまでに一度、唾を飲み込んだ。
「行く」
朔は何も言わず、歩幅を少しだけ落とした。
管理通路の終わりに、点検口があった。
内側から押すと、薄い金属板が動く。その向こうは理科準備室へ続く小さな物置だった。五人は順番に這い出し、埃の積もった床へ降りる。
澪が最初に見たのは、扉だった。
廊下側へ通じる木製の扉。
表面の下半分が黒く焦げている。
焼けた木は波打ち、取っ手の周囲には熱で膨らんだ塗膜が固まっていた。
八年前の火災警報。
白い煙。
鼻の奥へ、存在しない焦げ臭さが戻ってくる。
「焼け跡は古い」
悠斗が低く言った。
「事件のときのままだ」
美月が扉へ近づく。
「でも、鍵は違う」
錠前だけが新しかった。
銀色の金属はほとんど錆びておらず、焦げた木製扉へ無理に埋め込まれている。螺子にも新しい傷が残り、数年以内に交換されたことは明らかだった。
「こっちからは開かない」
朔が取っ手を回す。
内側のつまみすら動かなかった。
「管理通路から入れるのに、わざわざ廊下側を新しい鍵で閉じてる」
美月が眉を寄せた。
「誰かを閉じ込めるため?」
「あるいは、外から入らせないため」
朔は工具を出した。
細い金属片を錠前の隙間へ差し込み、内部の位置を探る。二度、三度と角度を変える。
かちり。
小さな音。
錠が外れた。
扉は数センチだけ開き、廊下の暗闇が見えた。
その隙間から、爪で木を掻く音が聞こえた。
きい。
澪の身体が固まる。
「今の……」
美月も聞いていた。
朔が扉を大きく開いた。
廊下には誰もいない。
焦げた扉の外側に、新しい傷もなかった。
澪は扉へ触れなかった。
触れれば八年前の指の跡まで戻ってきそうだった。
準備室の中へ視線を移す。
薬品棚。
錆びた流し台。
割れたビーカー。
古い骨格標本。
白衣を着せられた人体模型。
その人体模型には、首から上がなかった。
肩の上で断面が平らに切られ、頭部だけが最初から存在しなかったように見える。
「気味悪い」
奈々香が小さく言った。
「八年前も、あれ頭なかった?」
悠斗が首を振る。
「覚えてない」
「私はあった気がする」
美月が答えた。
「顔の半分が外れる普通の模型だったと思う」
「なら誰かが外した」
朔が周囲を撮影する。
部屋の中央には大きな実験台が置かれていた。
天板の上へ、七つのガラス瓶が一直線に並んでいる。
一番目から六番目までは空。
どれも底へ赤茶色の乾いた膜だけが残っている。
七番目の瓶にだけ、黒ずんだ液体が数センチ入っていた。
光を当てる。
赤ではない。
黒に近い褐色。
粘りのある液体が、瓶を傾けてもゆっくりとしか動かない。
「血みたい」
奈々香が言った。
美月の顔が強張る。
救急鞄から、門前の木箱に入っていた小瓶を取り出した。
〈理科準備室 標本七〉。
小瓶の底では、先ほど監視室で液体へ戻った赤茶色のものが、また薄い膜となって硝子へ張りついている。
「似てる」
澪が七番目の瓶を見る。
「色が」
「乾燥の程度が違うだけなら、同じものに見える」
美月は断定しなかった。
実験台の右端。
埃の中に、小瓶と同じ大きさの四角い跡がある。
そこだけ表面が白く残り、横へ古いラベルが貼られていた。
標本七 返却
奈々香が息を呑む。
「本当に返す場所が用意されてる」
美月は小瓶を持ったまま動かなかった。
「置いたら何が起きるか分からない」
悠斗が言う。
「でも、最後は理科準備室。血を返せって書いてあった」
「だから従うのか?」
「ここまで従わなくても進ませてもらえなかっただろ」
美月が二人を制した。
「置く。でも全員、模型と天井から離れて」
朔が人体模型へ目を向ける。
「俺が先に確認する」
模型の背後。
台座。
足元。
外から見える範囲に、電線はない。
朔は懐中電灯を天井へ向けた。
梁の一部に新しい金具が見えたが、暗くて先までは確認できない。
「何かある」
「外せる?」
「位置が高い。先に瓶だけ戻す」
五人は実験台から距離を取った。
美月だけが前へ出る。
小瓶を白い四角の上へ置く。
底が天板へ触れた。
かちり。
どこかで小さな機械音がした。
「離れて!」
朔が叫ぶ。
美月が一歩下がる。
首のない人体模型の両腕が動いた。
硬い関節が一度外側へ開き、次の瞬間、美月へ振り下ろされる。
「美月!」
白い手が首へ届く。
模型の指が左右から喉を挟んだ。
美月の身体が後ろへ引かれる。
「っ……!」
声が潰れた。
悠斗が右腕へ飛びつく。
澪も反対側の腕を掴んだ。
硬い樹脂の関節は異様な力で締まり続ける。
「離れない!」
「引くな! 首ごと持っていかれる!」
朔が模型の背後へ回る。
懐中電灯を口に咥え、白衣を引き裂く。
背中から細いワイヤーが二本伸びていた。
肩の関節へつながっている。
朔は工具を差し込み、一方を切断した。
右腕が落ちる。
悠斗が美月の身体を支える。
もう一本。
金属が弾ける。
左腕も力を失った。
澪が白い指を美月の首から外す。
美月は床へ膝をつき、大きく息を吸った。
「大丈夫?」
「待って……」
喉を押さえる。
何度か咳き込み、ゆっくり呼吸を整えた。
澪は美月の首を見る。
赤くもなっていない。
模型の指があれほど強く押さえていたのに、皮膚には傷一つなかった。
「痛い?」
「圧迫感はあった。でも……」
美月自身も首へ触れる。
「痕がない」
朔は人体模型を倒し、背面を調べた。
ワイヤーは天井へ伸びている。
梁の裏には小型モーター。
無線受信機。
監視室から操作できる装置と同じ型だった。
「人間の仕掛け」
悠斗が息を吐いた。
「また」
「そうだ」
朔は切ったワイヤーを撮影する。
「瓶を置いた重さか、机のセンサーで作動した」
「じゃあ、終わり?」
奈々香が言う。
澪は人体模型の手を見た。
白い右手。
指先に赤いものが付いている。
「待って」
美月が振り向く。
「血」
模型の掌から指へ、新しい血が塗られていた。
乾いていない。
濃い赤。
澪は自分の手を見る。
傷はない。
悠斗。
朔。
奈々香。
誰も出血していない。
美月の首にも傷がない。
「さっきまでついてた?」
奈々香が震える。
「見てない」
朔が答える。
「撮った映像を確認する」
人体模型が動く前の静止画を拡大する。
手は白い。
赤い付着物はない。
動き始めたあと。
美月の首を掴む直前にも、まだ白い。
首へ触れた瞬間、映像が一度だけ乱れている。
次の一コマ。
指先が赤い。
「美月から出たように見える」
悠斗が言う。
「でも傷はない」
美月は手袋を着け直した。
綿棒で模型の掌から赤い液体を採る。
次に、七番目のガラス瓶からごく少量だけ採取する。
簡易試薬へ別々に落とす。
反応を待つ。
奈々香が息を詰めて見ていた。
「分かるの?」
「正式な検査じゃない」
美月は言った。
「ここでは血液型を断定できない。でも、少なくとも人の血液に近い反応か、簡易的な凝集の傾向が一致するかは見られる」
一枚目。
模型の手。
二枚目。
瓶の中。
数十秒後、美月の目が細くなった。
「反応が近い」
「同じ血?」
「同一人物とは言えない。正式な鑑定が必要。でも、少なくとも同じ型である可能性は高い」
澪は七番目の瓶を見た。
標本七。
美月が八年前、自宅へ持ち帰った小瓶。
事件のあとに消え、今夜また戻ってきた。
「誰の血なの」
奈々香が呟く。
答えを知る者はいない。
美月が実験台の下を調べ始めた。
「机の中も見る」
右側の引き出し。
錆びて固まっている。
悠斗が工具を差し込み、少しずつ開く。
中には古い紙束が入っていた。
湿気を吸い、端が波打っている。
朔が一枚ずつ撮影する。
化学実験の記録。
古い備品表。
学校名が印刷された検査用紙。
その中に、一枚だけ新しい透明袋へ入れられた紙があった。
表題。
標本七 検査記録。
澪の心臓が強く打った。
氏名欄。
空白。
性別。
空白。
年齢。
空白。
血液検体。
採取済。
「日付」
美月の声が掠れた。
澪も見る。
採取日は、八年前。
澄花が七刻女学校で失踪した翌日だった。
「翌日……?」
悠斗が紙を奪うように覗く。
「ありえないだろ」
澪は日付を何度も確認した。
間違いではない。
事件当夜の翌朝。
警察が校舎を捜索し、澄花の大量の血痕を確認したあと。
「警察は、あの夜の血の量から死亡した可能性が高いって」
奈々香が言う。
「でも遺体はなかった」
美月の声は低かった。
「もし、この採取記録が本物なら」
澪が続ける。
「澄花は次の日まで生きてた?」
「少なくとも、翌日に本人から採った血なら」
美月は紙を握らず、机の上へ置いた。
「そうなる」
監視室で透の音声が示したことと一致する。
事件後も澄花は生きていた。
警察が校内へ入ったあとも。
誰かが彼女を見つけられない場所へ隠していた。
澪の頭に、管理通路が浮かんだ。
壁の中。
図面に載っていない空間。
「澄花は準備室から通路へ出た?」
悠斗が言う。
「だったら、翌朝まで隠れられる」
「自分で隠れたとは限らない」
美月が返す。
「連れていかれた可能性もある」
澪は準備室の壁を見た。
焼け跡。
古い棚。
剥がれた塗装。
何か。
何かが足りない。
八年前、澄花はここから出られなかった。
少なくとも澪が最後に声を聞いたときは。
なのに翌日に血が採られた。
そのあいだに何があったのか。
「ライト」
美月が救急鞄を探る。
小型の紫外線ライトを取り出した。
「血痕を探すの?」
澪が訊く。
「血だけじゃない。壁に何か残ってるかもしれない」
室内灯を消す。
五人の懐中電灯も一度落とす。
準備室が暗闇へ沈む。
紫の光だけが、壁をゆっくり撫でた。
流し台。
棚。
焦げた扉。
人体模型の白い腕。
東側の壁へ光が当たったとき、薄い線が浮かんだ。
「止めて」
澪が言う。
美月の手が止まる。
肉眼では何も見えなかった場所。
紫外線の下だけで、何本もの細い文字が現れている。
鉛筆ではない。
何か透明な液体で書き、乾かしたような跡。
澪は一歩近づいた。
文字の癖を見た瞬間、分かった。
澄花の字。
部室のノート。
音楽室の楽譜。
少し右へ傾く文字。
払いの長い「私」。
そこには二行だけ書かれていた。
私はここから出た。
でも、誰かがもう一度連れ戻した。
澪の呼吸が止まった。
準備室のどこかで、白い指が壁を掻く音がした。
きい。
今度は、五人全員が聞いた。
管理通路は、理科準備室の裏側へ近づくほど狭くなった。 古い給水管と新しい電線が頭上で絡み、ところどころ壁から剥き出しの鉄骨が突き出している。五人は身体を横へ傾けながら、一列になって進んだ。 先頭の朔が足を止める。「この先だ」 懐中電灯の光が、コンクリート壁の小さな表示札を照らした。 理科準備室。 文字を見ただけで、澪の呼吸が浅くなった。 胸の奥へ冷たい指を差し込まれたように、息が途中で止まる。 八年前。 濡れた木の扉。 爪で何度も表面を引っかく音。『澪ちゃん、開けて』 澄花の声。 取っ手へ両手を掛けた自分。 そして、背後から腕を掴んだ誰か。 耳元へ落ちた低い男の声。『もう助からない』「澪」 朔の声で、記憶が切れた。 目の前に彼の肩がある。「止まるか」「止まらない」 答えるまでに一度、唾を飲み込んだ。「行く」 朔は何も言わず、歩幅を少しだけ落とした。 管理通路の終わりに、点検口があった。 内側から押すと、薄い金属板が動く。その向こうは理科準備室へ続く小さな物置だった。五人は順番に這い出し、埃の積もった床へ降りる。 澪が最初に見たのは、扉だった。 廊下側へ通じる木製の扉。 表面の下半分が黒く焦げている。 焼けた木は波打ち、取っ手の周囲には熱で膨らんだ塗膜が固まっていた。 八年前の火災警報。 白い煙。 鼻の奥へ、存在しない焦げ臭さが戻ってくる。「焼け跡は古い」 悠斗が低く言った。「事件のときのままだ」 美月が扉へ近づく。「でも、鍵は違う」 錠前だけが新しかった。 銀色の金属はほとんど錆びておらず、焦げた木製扉へ無理に埋め込まれている。螺子にも新しい傷が残り、数年以内に交換されたことは明らかだった。「こっちからは開かない」 朔が取っ手を回す。 内側のつまみすら動かなかった。「管理通路から入れるのに、わざわざ廊下側を新しい鍵で閉じてる」 美月が眉を寄せた。「誰かを閉じ込めるため?」「あるいは、外から入らせないため」 朔は工具を出した。 細い金属片を錠前の隙間へ差し込み、内部の位置を探る。二度、三度と角度を変える。 かちり。 小さな音。 錠が外れた。 扉は数センチだけ開き、廊下の暗闇が見えた。 その隙間から、爪で木を掻く音が聞こえた。 きい。 澪の身体が固まる。
第二犠牲者の名は、黒く塗り潰されたままだった。 監視室の机に置かれた進行表。その紙面を覆う黒いインクは、何度光を当てても下の文字を透かさない。 澪は指先で紙の端を押さえたまま、息を詰めていた。 すぐ背後で聞こえた椅子を引く音は、もう消えている。 振り返っても、監視室には五人しかいなかった。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 そして澪。 十数台のモニターから漏れる青白い光が、全員の顔を不健康な色へ染めている。機械の冷却ファンが低く唸り、壁内を走る新しい配線の表示灯が一定の間隔で瞬いていた。 右端の画面。 図面には存在しない教室。 制服姿の少女は、先ほど引いた椅子の横へ立っている。 顔は見えない。 背を向けたまま、次に座る誰かを待っているようだった。「台本、全部見せて」 美月が言った。 朔が進行表を机の中央へ移す。「触るなら手袋を」「分かってる」 美月は薄い手袋をつけ、透の死亡が記された頁を慎重にめくった。 次の頁には、七不思議ごとの準備項目が並んでいる。 必要機材。 想定反応。 対象者。 誘導文。 その書き方に、悠斗の目が止まった。「待て」 身を乗り出す。「ここ」 指したのは、十三段目について書かれた箇所だった。 〈異常を否定する者を先行させ、残りの反応を撮影する〉 短い一文。 悠斗の顔から血の気が引いた。「これ……俺が書いた」「今夜?」 奈々香が訊く。「違う」 悠斗は首を振った。「八年前だ」 監視室が静かになった。「心霊研究会で、探索計画書を作った。どの場所をどう回るか、誰が先に入るか。動画として面白くなる順番も決めた。そのとき使った言い方だ」「同じ文章?」 美月が問う。「ほぼ同じ」 悠斗は進行表をめくった。 音楽室。 〈音の発生源を確認する者を先に室内へ入れる〉 舞踊室。 〈最後尾の人物だけ遅れているように見せる〉 放送室。 〈実際の声と録音を混ぜ、どこから聞こえているか判断できなくする〉 悠斗の指が止まる。「これも」「全部、昔の計画書に?」「そのままじゃない。でも言葉の癖が同じだ」 朔が一冊の黒いファイルを開いた。「八年前の計画書は残ってるのか」「警察に提出したはずだ」「複製は?」「部室のパソコンにあった」「誰でも見られた?」「部員なら
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……